高倉健 その魅力
高倉健 その魅力
高倉健 その魅力
高倉健 その魅力

邦画の名作

週末見たい映画

不器用な男ですから

寡黙で無口。不器用な男。高倉健さんのイメージは饒舌ではないイメージがあります。実際の健さんはあれだけのスターであるにも関わらず、偉そうな態度をすることもなく映画の撮影中にはどんなスタッフにも声を掛けます。そして若いスタッフが誕生日だったら「誕生日だね。おめでとう」と声を掛けてくれます。あの健さんと一緒に仕事をさせていだけるだけでも感激のうえ気さくに声を掛ける健さんの姿は、いろんな人の模範となりまさに目標です。

「あなたへ」の撮影現場では、佐藤浩一さんが自分のマネージャーに自分の携帯電話で写真を撮ってもらっていました。佐藤浩一さんは携帯の待ち受けに、健さんとのツーショットにするそうです。佐藤浩一さんも大興奮する健さん。みんなさから健さん健さんと慕われ、健さんのスクリーン復活を待ちわびていました。

古き良き時代の映画

高倉 健

高倉 健 さんの本名は、小田 剛一(おだ ごういち)で愛称は「健さん」です。日本映画界で半世紀以上活躍している大スターで、まさに日本を代表するスターです。そして福岡の誇りでもあります。

代表作には、映画『網走番外地』シリーズ『日本侠客伝』シリーズ『昭和残侠伝』シリーズ『新幹線大爆破』『幸福の黄色いハンカチ』『八甲田山』『南極物語』『鉄道員(ぽっぽや)』などなどたくさんあり、そして健さんのすごいところがいずれも邦画史上に残るヒットを記録していることです。

生い立ち

1931年(昭和6年)2月16日、福岡県中間市の裕福な一家に生まれました。父親は旧海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていました。母親は教員でした。幼少期の健さんは、今の姿から想像がつかないのですが、肺を病んでいて虚弱な子供だったそうです。

終戦を迎えた中学生の時に、アメリカ文化に触れることになり、アメリカ文化の中でもボクシングと英語に興味を持ったそうです。そして学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込みました。戦績は6勝1敗でした。

英語の方は北九州市小倉のアメリカ軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行くうちに自然と取得していき、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけていきました。。福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学しました。明治大学在学中には相撲部のマネージャーを1年間務めていました。大学を卒業した後は、望んだような就職先がなかったため一旦帰郷しています。

俳優へ

1955年(昭和30年)に大学時代の知人のつてで、美空ひばりが所属していえる新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接テストを受けました。しかしたまたまその場に居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされて、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社します。

東映ニューフェイスの動機には、今井健二・丘さとみ・岡田敏子・五味龍太郎たちがいます。その当時、ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月学び、さらに東映の撮影所で6か月のエキストラ出演などの修行期間を経ることが決められていましたが、俳優養成所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」といわれるぐらいの落ちこぼれだったことを後に話をしています。

そして東映ニューフェイスの採用から、約1か月半で主役でデビューが決定しました。その際にに、マキノの知人から「高倉健」という芸名をつけられました。健さん自身はデビュー作の主人公の役名「忍勇作」が気に入っていたので、「これを芸名に」と希望しましたが却下されて、自身は嫌々ながらの芸名高倉健でのデビューとなりました。

演技経験もまったくなく、そして親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人でしたが、スカウトされて翌年の1956年(昭和31年)の映画『電光空手打ち』で主役でデビューします。元々俳優を目指していた訳ではないということもあって、初めて顔にドーランを塗って、化粧をした自分を鏡で見た時、九州男児として北九州で生まれてまさか自分が化粧を・・と情けなくて涙が止まらなかったといいます。

その後も、アクション・喜劇・刑事・ギャング・青春・戦争・文学・ミステリなど、幅広く現代劇映画に出演して、この頃から主演スターの一人として活躍していましたが、自身はまともな演技のトレーニングも受けたこともないまま、数多くの作品に出演し続けることがコンプレックスになっていました。1960年代前半(昭和40年ぐらい)まで時代劇映画をメインにしていた東映では、片岡千恵蔵・中村錦之助・美空ひばりの映画などにも助演していました。

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仁侠映画

1963年(昭和38年)に出演した『人生劇場 飛車角』の作品以降は、仁侠映画を中心に活躍していきます。この仁侠映画は、着物姿でのたちまわりがとてもかっこよく仁義を切る姿も今見ても惚れ惚れします。

健さんの1964年(昭和39年)から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年(昭和40年)から始まる『網走番外地』シリーズと『昭和残侠伝シリーズ』などに主演していきます。『網走番外地』シリーズの主題歌は、それからのち歌詞の一部が反社会的というのが理由となって一時は放送禁止歌になっていましたが公称200万枚を売り上げています。『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』もカラオケなどで今でも歌い継がれています。

1970年は安保をめぐる混乱という社会情勢を背景にして、健さんが演じる主人公は「不条理な仕打ちに耐え、ついには復讐を果たす着流しのアウトロー」という姿は、学生運動に身を投じる学生を含めて、その当時の男性に熱狂的な支持を受けていましたが、健さん本人は年間10本以上にも及んだその当時のハードな制作スケジュール。そして毎回繰り返される同じようなストーリー展開という中で、心身ともに疲弊してしまい、自分の気持ちが入らずに演じている不本意な芝居も多かったといいます。

なりたくてなったという俳優ではなかったということもあり、過密スケジュールに疲弊してっていた中で、何度か自らが映画館に足を運んだ際に、映画館の通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采して、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにして、強い衝撃を受けたといいます。

これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね。」と、当時の映画館での様子を客観視して話をしています。この当時の健さんの風貌は、劇画『ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルにもっていて、『ゴルゴ13』の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であったといいます。